四津谷 孝道(仏教学部仏教学科)
「「空」という思想とのかかわりの中で」
令和7年度第1回祝祷音楽法要文化講演
(2025年4月15日)
I はじめに
ただ今ご紹介に預かりました仏教学部の四津谷でございます。まず,一言お断りしておきたいことがあります。今日は仏教学部の数多くの入学仕立ての学生さんたちが来ることを知ったのがつい昨晩のことでして,すでに用意した原稿に皆さんがわかるように手を入れる時間がありませんでした。ですから,ひょっとすると退屈で無駄な時間を過ごすことになるかもしれません。そのことについては,予めお詫びしておきます。
では,早速はじめさせて頂きます。拙い話ですが,しばらくの間どうぞお付き合い下さい。
さて,大乗仏教の思想には,ご存知のように,中観派による中観思想と唯識派或は瑜伽行派による唯識思想という二つの大きな潮流があります。その大乗仏教では,おしなべて「空」ということが説かれるのですが,多くの人は「空」と言えば,中観派の「空」を連想します。そして私がこれまで主に携わってきたのも,この中観派の「一切皆空」という思想です。私自身,学生として多くの先生方に学び,その後教わる側から立場が変わり,今度は教壇に立ってたくさんの学生さんや聴講生の方々に話をしてきた中観派の「空」という思想とのこれまでのかかわりの中で久しく心に潜めてきたことがいくつかあります。これまで確信がもてず,他人様の前で話したり,書いたりしてこなかったそうしたことのひとつを,後でお叱りをうけるのを覚悟のうえで,今日はここでお話しさせて頂きます。
II 序 論
さて,唐突ですが,今日私が皆さんにお伝えしたいこと,つまり私の話しの結論をまず最初に掲げておきます。それは,
月並みな言い方をすれば,実践を欠いた理論は頭デッカチで,甚だ危なっかしいものであって,一方自分の頭で理解していないことをいくら実践しても,その結果はその場限りのものとなり,けっして身につかない,という至って単純な話です。では,本題に入っていきましょう。
III 「空」とは
演題にある「空」についてごく簡単に説明を加えておきます。「空」という考え方は,初期の仏教でも語られてはいますが,大乗仏教においてとくに枢要な役割を果たすようになりました。「空」というのは,よく「非有?非無」と修辞?表現されます。空が「ものが存在すること」すなわち「有」の否定であるということは比較的わかり易いと思われますが,空が「無」でもないということの微妙なニュアンスを理解することは容易ではありません。何故ならば,「空」という考えはやはり「無」に傾斜した意味合いが非常に強いからです。
ともかく,空とは,たとえば「幻」或は「蜃気楼」のようなものだと理解して下さい。それらは,現象としては確かに存在しますが,しかし実態をともなわないもの,その存在の有りようがとても脆弱なもの,ということです。大雑把に言えば,われわれは常にと言っていい程いろいろな欲望に振り回されてばかりいますが,そうした欲望?執着の対象となるものは空なのですよ!有るように見えて実はないのですよ!だから執着することは意味がないのですよ!ということ,これを伝えることが「空」という思想の主な目的だと思われます。
IV 「空」という思想の問題点(1)
そうした中観派の空の思想には,以下のような重大な問題点があります。
仏教とは,基本的には,人々が自らの心を見つめ,それを修正することによって自己が向上していく道を指し示してくれるものととらえられます。われわれには外の世界と内の世界があり,前者がモノ,後者が心の世界だとすると,仏教は後者の心の在り方をより重点的に扱うものであることは,初期仏教以来の長い伝統の中で受け継がれてきたことです。
しかし,中観派が「一切皆空」すなわち「すべてのものは一律に空である」と言って,モノと心を一緒くたに空として扱った場合,「一切皆空」と説く人,「すべてのものは空である」ととらえる主体であるところの心は,モノと同列に空と理解され片づけられてしまいます。このように,中観思想の「空」においては,本来モノよりもずっと慎重に扱われなければならないはずの心,すなわち自己を向上させていくというわれわれの営みの拠り所である心がモノとともに短絡的に切り捨てられてしまう,という危険性があります。
そうした意味では,世界を心に還元していくプロセスのなかで,心に焦点をあて,それを詳細に分析して解説してくれる唯識思想の方が,中観思想に比べてよりわかりやすく,より親切な教えなのかもしれません。また,中観派が後に唯識派に接近し「瑜伽行中観派」という中観と唯識の折衷的な学派が生まれたのもそうしたことに由来するのかもしれません。
V 「空」という思想の問題点(2)
また,別の視点から「空」という思想の問題点を指摘したいと思います。たとえば,「すべてのものが空である」という理解は概念的な理解です。少し詳しく言えば,それは主観と客観という枠組みの中でことばをとおしてもたらされる理解です。仏教では,このようにことば?概念によって対象を理解する知のことを「分別知」といいます。一方,仏教が目標とするのは涅槃或は解脱の世界で,そこはことばが成立しない寂静な世界です。したがって,涅槃とか解脱を得た人の知は,分別が成り立たない「無分別知」と呼ばれるものです。
ここに重大な疑問が提起されてきます。中観派による修行では,「これも空」,「あれも空」,そして「空であることも空」というように,あらゆるものを空である,とことば?分別によってとらえていくことが大きな部分を占めます。しかし,そうした空をめぐる分別知による考察をただひたすらくり返して空に関する理解をどんどん先鋭化させていっても,所詮それは分別知つまりことばの領域を超えることはできません。そのようにことば?分別を積み重ねていって,お悟りの世界すなわちことばのない世界に果たして入っていけると安易にとらえていいのでしょうか。
それに対する一つの答えとして,カマラシーラというインドの偉い僧侶の『修習次第』という著作に,以下のような『迦葉品』という経典からのことばが引用されています。
伽葉よ。[それは]以下のようである。たとえば,二本の樹木が風によって[お互いが]擦れ合うことそれに基づいて火が生じる。そして[火が]生じて,[そのうちにそれら]二本の樹木は燃え[尽き]るのである。それと同様に,伽葉よ,真実として個別に観察(分別)することが有るとき,聖者の般若の力が生じ,それが生じることによって,正しく個別に分別することそれ自身を焼き[尽くす]のである。
簡単に言えば,二本の樹木が擦れ合うこと,すなわち主観と客観という枠組みの中でことば?分別による考察をひたすら続けていけば,やがてはその考察は止み,ことばが消えたお悟りの世界すなわち無分別知の世界に入っていく,というように理解できます。ただ,これは先の問いかけに対する納得できる答えになっているとはけっして言えません。しかし,私が問いたいのは,そうした分別知と無分別知との決定的な対立ではなく,引用文で燃え尽きる樹木に喩えられている分別知による考察のあり方なのです。
VI 「空」という思想の理解に何を求めるか
中観派の開祖はナーガールジュナ(龍樹)という人物ですが,かれの主著でもあり,中観思想の根本聖典とも言える『根本中頌』,一般に『中論』という本では,興味深いことに,仏教を理解していくうえで重要なもの,たとえば「四諦説」さらには「涅槃」でさえ空であると見なされています。ともかく,中観思想を学びたいと思う人は,通常この『中論』をはじめとする,かれの諸々の著作において縦横に展開されている空の議論にそって「すべてのものは空である」ということの解明に挑んでいきます。
ところが,それらの書には,「空」という思想に携わる者が弁えておかなければならないと思われるとても大切なことが記されていません。では,それは一体何でしょうか。先に紹介したカマラシ―ラの『修習次第』の別な箇所に,ちょうど私の後ろにある灯火を喩えとした以下のような一節があります。
奢摩他(止)を欠いた毘鉢舎那(観)を通しては,ヨーガ行者(修行者)の心は対境(対象)に対して散漫となるのであって,[かれの心は]風の中にある灯火のように堅固なものとならないのである。
仏教における修習(バーヴァナー)すなわち「くり返し何度も訓練することによって教えを身につけること」には,心を一つの対象に絞り込む「止」(シャマタ),六波羅蜜でいえば「禅定」と,そして対象を注意深く観察し精査?洞察する「観」(ヴィパシャナー),同じく六波羅蜜でいえば「般若」という二つの側面があり,空の論理による考察は,まさにこの修習以外の何ものでもありません。ここでは,その修習する心が風によって揺らいでいる灯火のようであっては正しく機能しない,といっていると解されます。このことをもう少し詳しく見てみることにしましょう。
ここにある「風のなかの灯火」という喩えを,ツォンカパというチベットの優れた僧侶は,以下のように解説しています。
たとえば,闇夜に絵画を見ようとして灯火をともすとき,1)[その]灯火が非常に明るいことと2) [その灯火が]風によって動かされないことの二つ[の条件]がともなっていれば,[そこに]描かれている諸々の[図像]は鮮明に見えるのであるが,灯火が明るくなかったり,あるいは明るくても風によって[灯火が]動かされているときには,[そこに描かれている]諸々の色?形は鮮明に見えないのである。
ある人が夜の暗闇の中で絵画を見ようとして,灯火をともしたとしましょう。かれがその絵画をあるがままに見るためには,その灯火に関して二つの条件が必要です。まず第一は,その灯火自身が十分に明るいことです。ですが,灯火がどんなに明るくても,風によってそれが激しく揺らいでいたら,絵画をしっかりと鮮やかに照らし出すことはできません。つまり灯火に揺らぎがないこと,これが第二の条件です。では,この灯火の喩えを「空の論理による考察」と結びつけてみましょう。
灯火が明るく対象を照らし出すことは,空の論理によって世界を先鋭に洞察すること,と考えられます。一方,灯火に揺らぎがないことは,洞察する心が強靭であること,正確にはその心が強くあるだけでなくしなやかであること,と理解されます。灯火がどんなに明るくても,それが揺らいでいたら,絵画を鮮明に照らし出すことができないように,集中力を欠いた不安定で偏った心によっては,「空」という理法が対象世界ばかりでなく洞察者自身をもあますところなく貫いている事実を包括的にとらえることは難しいと考えられます。
厳密に客観的な学問研究のみをめざす場合であれば,空に関する知的な洞察を深めることだけでもでもよいでしょうが,それを越えて「空」という思想をとおしてほんのわずかだけでも自らを改め高めたいと思うのであれば,単なる知的な洞察力を養うだけでは十分ではありません。身心全体で空をとらえ,別なことばでいえば,空を知ることをとおして空となることによって,そして原始経典にあるように,自らを中洲(或は島)や灯火のように拠り所として,ぶれのない力強くかつしなやかな心を調えることが必要になると思われます。さらに,そうしたぶれのないしなやかな心を調えるためには,空を机上の学びの対象とするだけではなく,たとえば六波羅蜜で言えば、「般若」(洞察)と「禅定」(精神集中)に加えて,より実践的な徳目である「布施」「持戒」「忍辱」そして「精進」などを修練していく中で,空の理解をくり返し反復して, 空の論理を心だけでなく身体にも刷り込み?刻み込んでいくという空との綿密なかかわりが重要になると考えられます。
VII 結 論
そして,このことは冒頭に言及した,
ということに結び付くのであると申し上げて,本日の私の話を締め括ることにします。
ご清聴ありがとうございました。
