杉西優一(経営学部市場戦略学科)
「仮想から現実へ―シミュレーション技術の開発と現場での実践」
令和7年度第2回祝祷音楽法要文化講演
(2025年5月15日)
講演者は、2024年4月に駒澤大学に着任した。着任以前は、国内の電機メーカーにおいて企業研究者?エンジニアとして勤務し、17年間にわたり経営情報システムに関連した技術の研究開発および実ビジネスへの適用に従事してきた。その中でも、最も長く従事したテーマは、企業における計画(例えば生産計画や物流計画など)や意思決定の高度化を目的としたシミュレーション技術の研究開発と、実ビジネスへの適用である。本講演では、これまでの企業での研究や実践の経験を踏まえ、「1. 企業におけるシミュレーションの活用」、「2. シミュレーション技術の展望」、「3. これまでの経験から考える今後の教育?研究への取り組み」の3つのテーマについてお話しした。本稿では、このうち「1. 企業におけるシミュレーション技術の活用」と「2. シミュレーション技術の展望」を中心に述べる。
1. 企業におけるシミュレーション技術の活用
まず、シミュレーションとは何か、その基本的な定義について述べる。一般にシミュレーションとは、「物理的あるいは抽象的なシステムをモデルとして表現し、そのモデルを用いて実験?検証を行うこと」をさす。すなわち、現実のシステムを直接操作することなく、モデル上でその振る舞いや結果を観察し、理解や予測を行うための方法である。
シミュレーションには大きく分けて二つの形態が存在する。ひとつは、実際に模型や試験装置などを用いて行う物理的シミュレーションであり、風洞実験や交通模型のように、現実に近い条件を再現して挙動を観察する手法である。もうひとつは、数学的あるいは論理的なモデルをコンピュータ上で構築し、数値的に実験を行う論理的シミュレーションである。後者は、情報処理技術の発展とともに高度化してきており、社会システムや経営活動など、物理的な実験が困難な領域においても適用が可能となっている。講演者は主として、この論理的シミュレーションを対象に研究開発を進めてきた。
シミュレーションは、対象や目的に応じて多様な形態をとる。例えば、身近な例として、ローン返済額の計算や税負担額の試算などが挙げられる。これらは、異なる条件(返済期間、利率、所得水準など)を入力することで、将来の結果を比較?評価するものであり、シミュレーションの基本的な考え方が応用されている。
ビジネス領域におけるシミュレーション活用の主要な目的のひとつは、将来予測と意思決定支援である。たとえば、人口動態の変化を踏まえた市場需要予測、企業の売上や収益の将来推計、工場や物流拠点における生産?稼働シナリオの評価などが挙げられる。これらの分析により、経営資源の最適配分やリスク回避、効率的な業務設計を実現することが可能となる。さらに近年では、人工知能(AI: Artificial Intelligence)やビッグデータ解析と組み合わせることで、シミュレーションは単なる予測手法にとどまらず、企業の戦略的な経営判断を支える高度な意思決定基盤として活用されるようになっている。
企業におけるシミュレーション技術の具体的な活用事例として、工場の生産計画業務における利用を紹介する。図1は、シミュレーション導入前の従来の状況(As Is)と、導入後にめざす姿(To Be)を対比したものであり、シミュレーション活用によって期待される効果を示している。左側の従来の状況(As Is)では、工場の生産計画は計画担当者が手作業で立案していた。そのため、計画の作成に時間がかかるという問題があった。また、計画立案には、担当者が蓄積してきた経験や勘、直感といったノウハウが不可欠であり、それらは言語化や数値化が十分にされていない場合が多かった。これにたいしてめざす姿(To Be)では、シミュレーションを導入することで計画立案のプロセスを自動化し、短時間で最適な計画を作成できるようになる。さらに、計画作成にかかる時間の短縮は、現場状況の変化に応じてその変化を入力し、即時に再計画を立案して実行指示に反映することを可能にする。このように、シミュレーションの活用は、効率化のみならず、変化への迅速な対応という効果ももたらす。

工場の生産計画業務におけるめざす姿(To Be)を実現するために開発したデジタル生産システムを図2に示す。このシステムの特徴は、「現実世界→仮想世界→現実世界」という閉じたフィードバックループを構築している点である。具体的には、まず現実世界からデータを収集する(Sense)フェーズを行い、そのデータに基づいて仮想世界(コンピュータ上のシミュレーション)で最適化を行う(Think)。その結果を指示(Act)として現実世界にフィードバックするという情報の流れを実現している。このループを定期的に実行することで、現実世界の状況に即した高精度な予測に基づき、生産計画の策定と実行を効率的かつ迅速に行うことが可能となる。

2. シミュレーション技術の展望
近年、企業活動や社会インフラの高度化?複雑化に伴い、現実世界の事象を仮想的に再現?分析し、将来のシナリオを設計?検証するための手段として、シミュレーション技術の重要性が高まっている。特に、気候変動、人口動態の変化、産業構造の転換といった社会課題に対して、科学的根拠に基づく意思決定を行うためには、現実と仮想を相互に結びつけたデータ駆動型のシステム構築が不可欠である。
このような要請に応える概念として注目されているのが、サイバー?フィジカル?システム(CPS: Cyber-Physical System)である。CPSとは、現実世界(フィジカル空間)から取得される多様なデータを、情報通信技術(ICT: Information, Communication Technology)およびシミュレーション技術を用いて構築した仮想空間(サイバー空間)と高次に統合することにより、現実世界の状態をリアルタイムで把握?解析し、最適な判断や行動を導くシステムである。CPSの特長は、仮想空間上でのシミュレーション結果を現実世界に即時にフィードバックし、現実社会の運用や政策決定に反映できる点にある。
この概念は2006年以降、米国国立科学財団(NSF: National Science Foundation)により次世代の重点研究領域として提唱され、製造業や交通、エネルギー、医療、都市インフラなど、幅広い分野で研究開発が進展している。CPSは単なる技術的システムにとどまらず、社会システム全体の最適化や新たな価値創出を実現する社会的基盤技術としての性格を有している。
日本においても、第5期科学技術基本計画(2016–2020)において提唱された未来社会構想「Society 5.0」の中核技術としてCPSが位置づけられている。Society 5.0は、サイバー空間とフィジカル空間を高度に融合させ、経済発展と社会的課題の解決を両立する「人間中心の超スマート社会」をめざすものである。この実現には、シミュレーション技術を活用したCPSの構築が不可欠であり、行政、企業、学術機関の連携による社会実装が進められている。このように、シミュレーション技術を活用したCPSは、複雑化?高度化する社会や企業活動において、科学的根拠に基づく意思決定を支える重要な基盤技術であり、持続可能で効率的な社会の実現に向けた今後の展開が期待されている。
